ユダを愛するものとして、生れた
夢を見た。ゲッセマネの園のような場所だった。
「救う必要なんてない」「神様が迎えに来てくださる」そう思っていた時に祈るイエスを見た。イエスが人間臭くて苦手で目を背けていた。
ただの人間なのに、耐えがたい苦痛と優しすぎた愚かな男。
…なぜ私は人を憎むことが難しいのか、信仰心が強い者の正体は何なのかわかった。
世の中にイエスのように優しすぎて、壊れながら生きていく人間が少ないからだ。
イエスはこの園で眠る弟子を見て気づいたのだろう。
この世で、異端なのは自分だと。
たいていのものはイエスを仰ぎ、少ないものはイエスを見つめる。
同じ目線でいばらの冠をかぶって。
孤独を抱いて。…なぜ自分が生まれたのか答えが出たような気がする。
夢でもそれでもいい。
ゲッセマネの園で。
ユダがいかに私の大切なものであるのか。
なぜ生涯にわたって愛するものなのか。
彼は迎えに来る。
マラナタ
イエスはゲッセマネの園で祈った。
父よ、もしできることなら、この苦しみの杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いどおりではなく、御心どおりにしてください
手持ちの聖書のマタイによる福音書から引用しましたが、ところどころ違いが見えますね。
ざっくりいうと、イエスはいまから死に行く中で夜に神に祈った。
恐怖の中でもだえながら。そして、弟子たちが寝ているのを見て失望した。
こんなやつらのために死にに行くのか…。
おそらくイエスは弟子を愛してはいなかった。神の愛をただ、わかりやすいように伝えようと思ったらカルト化していくので捕まりに行くのだが、それでも怖いものは怖い。
そして決心して、向かうことにした。鏡のようにユダが現れた。
※ここからは私の解釈
イエスはユダを無視し続けていた。この青年は、イエスに愛されること褒められることを求めていた。ユダは常に、イエスからの承認に飢えていた。
だからイエスは無視した。ユダのためにならないからだ。おそらく一番聡明な弟子はユダであったのかもしれない。
そして、ユダが自分を裏切り現れた時に「友よ」と言ったのは弟子たちのなかで一番、己の頭で考えイエスに正面から向き合い、イエスを愛しそして裏切る。これから大きな重荷を背負うことになるのに。イエスと同じ苦しむものだ。
罪よりもイエスはユダの裏切りを知っていながら、ゆだねた。
最後の決心をさせてくれたユダは苦しみもだえてイエスと同じように背負う。
わかりやすい愛着や承認欲求を抱えた作家によるユダの物語
いや、誰に理解されなくてもいいのだ。私の愛は純粋の愛だ。人に理解してもらう為の愛では無い。そんなさもしい愛では無いのだ。私は永遠に、人の憎しみを買うだろう。けれども、この純粋の愛の貪慾のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。私は私の生き方を生き抜く。
おまけです
※ゆるくてすみません
あの時代の絵描きって大変だったんだろうな。
おわりに
主よ、私は愛しません
愛されようとしません
愛されようと思うことは恥です
私が正しく愛せるように
導いてください
この世界に正しい愛など無くとも
歩み続けます
マラナタ、主よ、来てください。