流浪の月
あなたと共にいることを、世界中の誰もが反対し、批判するはずだ。わたしを心配するからこそ、誰もがわたしの話に耳を傾けないだろう。それでも文、わたしはあなたのそばにいたい――。再会すべきではなかったかもしれない男女がもう一度出会ったとき、運命は周囲の人間を巻き込みながら疾走を始める。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。-amazon紹介より
「流浪の月」は恋愛か、それとも傷のなめあいなのか。
多くの人が、「愛」と定義したがるそれを、繊細に描き私たちの身勝手さや邪推を悲哀を込めて返してくる。そんな本でした。
この本でえぐられる傷と買うに至った理由
説明のほうで、自分の苦手なタイプの設定があったのでスルーしたのですが危ういことは何もなく、むしろ読んでいるときに何もあるわけないなと感じました。
傷ついた少年は、傷ついた幼い少女を家にかくまってしまう。
それは「誘拐」という形で世間ではさばかれ、大人たちは絶対になにかがあったはずだと徹底的に糾弾する。
世間が理解できないものは「友愛」だと思うのです。
男女でなくてもどこかで心が通じ合い、同じような経験をしていて一緒にいると心地よいが近づきすぎない。
親からの期待や苦しくなるような人間とかかわってきた人には、そういう距離を取りながらも離れない人物というのは救いに近いのです。
愛することが正解ではない
わたしも時々思うのですが、自分が人を救える状況でもないのに、相手の心の傷をいやそうと触れる人がいます。正直に言うと有難迷惑だし、「愛」で人を救えるというのは欺瞞に近いのです。半分は「愛」もう半部分に「自分を愛する」ことがないと、共倒れになります。人に手を差し出したときに、自分が成し遂げられることはないと覚悟してともに行く必要があります。
それができないのであれば、そばにいるだけにしてほしいー。
傷ついたものはそう願います。
まとめ
世間の邪推はこの二人を追い回します。彼と彼女の関係が「愛」というのかそれとも「共生」というべきなのか。人は男女の仲に「愛」が芽生えるものだと考えやすいです。それよりも定義すらできない深いなにかがあるのです。
だから理解できないものには糾弾が訪れます。でも、逃げて逃げてどこまでも流れてゆけばいいのです。あまりにも世俗的な邪推からは。