手なし娘というのは世界各地に散らばる民話である。
その範囲は広く、ヨーロッパからイラン、韓国、中国、日本にもわずかに伝わる。
この話を母と娘の確執とするか、女神と少女の世界とするかは感じ方によるのではないでしょうか。
手なし娘
むかし、むかし美しい清らかな娘がおりました。
母親は娘を妬み、娘が清らかではなく恥ずかしいことをしていると言いふらしました。
父親は悩み、母親の言うことを信じて娘をの両腕を切り落として追放しました。
娘は嘆き悲しみ、世界を呪いました。
果樹園で林檎を食べて暮らしていたところ、王様が夜に現れました。
王様は獣かと思えば美しい娘だったので、驚いて王は娘を助けて結婚しました。
娘は身ごもりました。
そのあともうまく行かないことはありますが、娘は乗り越えて幸せに暮らします。
複数の展開があるので、違いは色々調べていただけると幸いです。
手なし娘は手が戻る瞬間があります。それは崖から落ちるわが子を助けようと「無い手」を差し伸べたときです。
そして手なし娘の母は、自分の両手を失います。
娘の自分の手足のように扱い、自由を奪う母親と娘の確執を描いた話でもあります。
死と誕生の神話
さて、そこで「死と誕生」の神話がこの手なし娘に感じられます。
ギリシア神話を例に出します。ギリシアのペルセポネは、豊穣の神デメテルの娘です。ハデスに恋をされ冥界に連れ去られます。
ここにも「果樹園」もしくは「林檎」「果物」が登場します。 ペルセポネはハデスにそそのかされ「冥界の食べ物」を口にしたためにハデスの嫁となります。
コレー(少女)神であるペルセポネは母親のデメテルなしには考えることができない。
(中略)あらゆる結婚は暴力的強奪であり、しばしばラビエルやペルセポネの場合のように少女の殺害である。
われわれが見たように、そこでは祭儀行為の女性犠牲者が殺害に先立って犯されるように、どの花嫁も結婚の前にあらゆる男によって犯されるのだ。
ー「殺された女神」 AD・Eイェンゼン著
手なし娘にも例を戻しますが、ドイツ版の「手なし娘」では「悪魔」は清らかなままな娘では手が出せなかったために悪知恵を働かせて手を切り落とされます。
少女を「冥界」に堕とすことの意味
ギリシアのペルセポネがそうであるように、少女神を冥界に堕とす。
その過程が「結婚」という行為なのかもしれません。
「冥界」に落ちた少女は母親の意志とは別に「結婚」もしくはハデスの差し出した食物を食べることを選択します。
これは、自立の物語なのか、冥界の神の罠なのか。
もしかしたら結婚そのものが冥界へのいざないなのかもしれません。
冥界に行ってほしくないデメテルの思いというのは「少女のままであれば幸せなのに」という嘆きでもあるのでしょう。
果樹園の王は、その地域の民話を調べると墜落して追われた王であったともされます。
手なし娘がいた果樹園は「黄泉」であり「地獄」であるともされます。
人は「地獄」でなにを知るのでしょうか。
「冥界」を見なくてもいいけれど、私たちは生きている限り清廉であれるとは限らないのでしょう。